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1976年12月12日、記念すべき第1回河口湖日刊スポーツマラソンの号砲が、河口湖畔に鳴り響いた。絶好のマラソン日和に、富士山の姿がくっきりうかぶ中、2428人のスタートだった。
「日本一のマラソン大会をつくろう」。キッカケはこの言葉だった。青梅マラソンの参加者が7518人で、世界のマラソン史上最高の参加者だった時代のことである。立ち上げに携わった日刊スポーツスタッフは語る。「青梅マラソンに対抗するため、交通の便なども考えた結果、最初の候補地は所沢だった。西武球場をスタート・ゴールにして準備段階にはいっていた」。が、交通規制でバスの運行を止められないことがわかり、会場変更を余儀なくされた。そこで各担当者で話し合い「日本一の大会なら、日本一の富士山のふもと、河口湖で開催しよう」との結論に。ここに河口湖日刊スポーツマラソンが産声をあげた。まだフルマラソンの部はなく、20キロの部がメーンであった。
どのイベントでも第1回というのは苦労を伴う。この大会も同じだ。大会当日、スタート・ゴールの八木崎公園に向かった担当者は目を疑う。「駐車禁止」の看板を設置しているにも関わらず、ワカサギ釣りの一般客の車で公園が埋まっていたのだ。スタートまであと4時間。湖上で釣り糸を垂らしている1人1人に頭を下げ車を移動してもらった。「それぐらい認知度が低かった」と振り返る。また、交通規制を無視した観光バスがコース内に侵入。その間をランナーが縫うように走るなどアクシデントもあった。それでも参加者からは「日本一の富士山が見守ってくれた」「なにより景色が素晴らしい」といった感動の声が続々と挙がった。
その後、80年の5回大会には72年ミュンヘン五輪男子マラソン金メダルのフランク・ショーターが出場するなど河口湖日刊スポーツマラソンの名は世界へ広がっていく。
30キロレースは河口湖から西湖を周回して戻ってくるコースを採用していた。河口湖から西湖への道は750メートルの間に120メートルも駆け登る上る急勾配。当時の紙面で「魔の丘」と表現された。アップダウンの激しいコースに多くのランナーは悲鳴を上げたが、逆に「魔の丘」攻略へ全国からトップランナーが河口湖に集結。特に大学生には箱根駅伝の前哨戦となり、若手の登竜門となっていった。
多くの参加者よりフルマラソン開催希望の声が寄せられ、ついに81年に実現。フルマラソン開催により参加人数は飛躍的に増加、85年には9000人を突破する。82年には、市民マラソン大会としては画期的な海外マラソン(バンクーバーマラソン)との初の姉妹提携を実現した。
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